父の言葉
徳正寺にご縁をいただいてから、毎晩のごとく住職とお酒をよばれていました。
その中で交わした色々な言葉が、今となっては大きな財産になっています。
ある晩のこと、住職に私がひとつ質問をしました。
入寺当時はまるっきり赤の他人だった地域の方々が、
時間が経つにつれご縁が深くなってきたことで、
私の中である悩みが出てきたのです。
それは「○○さんのお葬式、私に勤められるだろうか」ということでした。
ただでさえ涙もろい私が、ご縁の深いお方のお葬式できちんとお経が読める気がしなかったのです。
そこで住職に「お父さん、どうしたらええですか」と質問してみたのです。
そこで返ってきた答えは意外なものでした。
「別れるのがいやなら、はなから付き合わんかったらええ。」
このとき、私はこの言葉の真意がわからなかったので、なんて冷たいことをいう人なんだ、
と半ば絶望したことを憶えています。
しかし、住職の代わりを勤めさせていただくようになって、
最近ようやくこの言葉の真意がわかってきたように思います。
それは、「泣いたらええじゃないか」ということです。
『「出会う」ということは「別れる」ということなんだ。
「ご縁が深くなる」ということは「涙が色濃くなる」ということなんだ。』
それがわかった時、すーっと胸のつっかえが取れた気がしました。
親として、兄弟、夫婦、友人として、人は色々な形で人と出会っていきます。
しかし、それは寂しいかな、必ずや別れなければならない人達です。
また、ご縁が深くなればなるほど、涙は色濃くなるものでした。
そこに涙なしでは別れていけない私の姿を、仏さまは見捨てておけなかったのです。
底なしに涙を流し生きていくわたしに、仏さまから底なしのお慈悲が届いてくださっている。
そのことが何とも尊く、たのもしいのでしょう。
これからもたくさんの別れをお互い経験していく中に、確かなお慈悲を慶びたいものですね。
親鸞聖人の言葉
「恩愛はなはだ たちがたく
生死はなはだ つきがたし」
どれだけお念仏をいただいていたとしても、
仏教を拠り所に生きているとしても、
私たちの心から「愛」はなくなりません。
この「愛」こそが苦悩の根源だと言われます。
阿弥陀さまはそれを完全に「断ってこい」とは仰いませんでした。
愛のなかでしか生きていけないわたしをご存知の仏さまでした。
自らが作り出した愛と憎しみの真っ只中にありながら、
「いろんなことがやってくるけどな、お念仏しながら生きてくるんだよ」
そう仰ってくださる仏さまでした。
苦悩の只中にありながら、今日もお念仏させてもらいましょう。
なまんだぶ。なまんだぶ。