いのちのご縁が尽きていく
父が倒れ「住職」というものを背負ってから早7年半。
振り返ってみるといろいろなことがありました。
多くの出会いがありました。
それと同じだけ、いやそれを上回るほどの別れもあった一年でした。
わたしたちはその別れをどのようにいただいていけば良いのでしょうか。
浄土真宗をお聞かせいただくなかで、とても大切な言葉があります。
それは「往生」という言葉です。
娑婆のいのちのご縁が尽きていくを「死」という言葉で受け止めるのではなく、
「往生」という言葉でいただきなさい、と仏さまは仰います。
「往生浄土」=「お浄土に「往」き「生」まれる」ということです。
娑婆のご縁が尽きるということは、さみしいことではあるけれども、
「往生」と受け止めることで開かれてくる世界があるのでしょう。
このたびは仏さまが与えてくださった「往生」という言葉によって
開かれていくいのちの世界をご一緒にお聞かせいただきましょう。
終わり?はじまり?
私たちは赤ちゃんが生まれることを「誕生」と呼び、
それを「はじまり」であるとし、「おめでたい」「明るい」こととして
受け止めてきました。
それに対して人の境涯を終えていくことを「死」と呼び
それを「終わり」「不幸なこと」「暗い」こととして
受け止めてきましたね。
しかし、よくよく考えてみると
「いやー、三日前死んでしもーてさ」と
だれかの死の体験談を聞いたことがありませんし、
見たこともありません。
人のイメージでいのちの終わりを「死」と名付けたにすぎませんね。
確かに人との別れはさみしいことであり、
簡単に受け止めていけることではありません。
しかし、それをどのような言葉でいただいていくか。
それは残された私たちにとっても非常に大切な問題です。
仏さまは「往生」とおっしゃいます。
死んだんじゃない。「往」き「生」まれたんだよ。
終わったんじゃないよ。新しいいのちの始まりだと仰るのです。
見送った大事なお方は人生の幕を閉じていったのではない。
あたらしい人生の幕開けなんだといただくことですね。
仏さまという、すべてのいのちの幸せを願い、そのために活動する
もっとも豊かで、幸せないのちとして、生まれてくださったんだ。
そして今も仏さまとしてご一緒してくださってあるんだなぁ。と
そういただいたとき、残されたわたしたちの故人様への仰ぎ方が変わるでしょう。
言葉のちから
私たちは「言葉」によって、すべてのものを認識し、
生活をしています。
たとえば、「食事をする」ということを「メシを食う」という言い方もあれば、
「ご飯をいただく」という表現もあるでしょう。
どちらも同じ「食事をする」ということですが、
与える印象は大きく異なりますね。
私も今小さい子を育てていますが、やはり子供には
「おい、メシを食え」とは言いません。
「いただきますとご飯よばれようね」という言葉で
子供を育てていきます。
それはいのちをいただいている自覚であったり、感謝というものを
もちながら生きていってほしいという願いがあるからです。
言葉ひとつでその人が歩いていく道が変わってくる。
言葉は大切に使わなければいけないのです。
人の臨終を「死」と呼んでも、「往生」と呼んでも、
事柄としては変わらないのかもしれませんが、
遺された私たちがそのいのちをどう仰ぎ、
これからどう生きていくか。
それがひとつの「言葉」によって開かれていくのです。
あなたの見送られた大事な人は
「往生」してくださったいのちとして
いただくんですよと、仏さまのお言葉をいただきましょう。
今も・・・
見送られた大事なお方は、「死に去った」お方ではなく
お浄土に「往き生まれた」お方であるといただくと、
寂しい中でも、今もわたしとご一緒してくださるお方としていただくことができます。
「どこにおるんじゃろ」「今なにしてるんじゃろう」と
遠くを探さないことです。
今のわたしとご一緒くださる。私の手を合わせて下さる。
そういう力となって、私の人生を支え、導いていくお方になってくださったのだといただいて
大事なお方を偲んでいけるといいですね。
それと同時に、わたしもまた同じところへ阿弥陀さまに抱えられて
生まれていく人生であったといただくことが
一番大切なことかと思います。
別れを別れのままで終わらせないことです。
大事なことをお聞かせいただきましょう。